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あえて受験を相対化してみる

これを見ている受験生のみなさん。

 

ちょっと刺激的なことを言いますが、あなたは

 

「学歴・受験学力至上主義」という宗教に毒されています。

 

まずそのことを自覚して相対化することが大切です。

 

このブログを見てるぐらいなので皆さんはきっと一流大学に行きたいんでしょう。

 

では、なぜ皆さんはいい大学に行きたいのでしょうか?

 

ここまで「そもそも論」を考えてる人は少ないと思います。

 

「いい大学に行くほうがいいに決まってない?」というあなたは、たとえいい大学に行ったところであまり幸せな人生は歩めない可能性が高い人です。(が、これからマインドセットを変えていけばいくらでも人生変わりますよ。)

 

おそらく皆さんを始めほとんどの受験生は「学問をするために大学に行く」わけではなく、現世利益のために、すなわち「モテる」とか「就職に有利」といった理由で大学に行きたいと思っているんでしょう。

 

これは本来褒められたことではありませんが、いまの「社会構造」を考えると、こういった消極的な理由で大学に行くことは止むを得ないと私は思っています。

 

皆さん一人ひとりが悪いわけではありません。

 

「たいして学ぶ意欲がない」人間が大学に行かないと生きづらい社会構造や社会システムにそもそもの矛盾があるわけですから。

 

結論として、なぜ皆さんが大学に行くのかと言えば、「学歴が高い」という事は極めて社会的に有利な条件だからです。

 

当たり前のようで皆さんは言語化して意識していないと思いますが、現代社会で学歴が高いというのは生きる上で非常に有利な条件です。

 

だからこそ、受験産業が栄え、私のブログも大ヒットなわけです。笑

 

しかし、学歴が高いことが「生きる上で非常に有利な条件」であるのは極めて「時代の特殊性ゆえ」であります。

 

例えば原始時代であれば、「足が速く獲物を獲れる人間」が「優秀な人間」でした。

 

それが平安時代には「和歌をうまく詠める人間」が「優秀な人間」でした。

 

戦国時代には文字通り「戦う能力が高い人間」が「優秀な人間」でした。

 

このように、「優秀な人間」や、「社会が評価する人間」は時代や場所によって変わります。

 

現代社会はダニエル・ベルが言うところの知識情報社会ですから、必然的にIQや処理能力が高いという意味で「頭が良い人」が過剰に富をつかめる社会ですが、この基準は普遍的でも何でもありません。

 

本来人間の能力というのは非常に多様です。

 

ラクロスがうまい

料理がうまい

足が速い

人の気持ちがすごくわかる

頭が良い

etc

 

このように人間の「能力」は多面体であり、本来人間というのは数値で測定できるような簡単なものではありません。

 

しかし、繰り返しますが、現代社会は時代の趨勢的にIQや処理能力が高い人間を過剰に評価してますから、「勉強ができる(だけ)の人」がなぜか「頭がいい人」、「偉い人」と過大評価されてしまうのです。

 

本来「足が速い」のも「ラクロスがうまい」のも「偏差値が高い」のも同じ位価値があることのはずです。

 

しかし、現代社会では「偏差値が高いこと」、「学歴が高いこと」は過剰といってもいい位に過大評価されていますが、それはただ単に「時代の偶然である」という相対化は必ず忘れないでください。

 

特に偏差値が高い人ほど気をつけて欲しいのですが、偏差値が高い大学に行くと人は無条件にあなたを評価します。

 

その時に「自分は努力したんだから評価されてしかるべきだ」などと思い上がらないでください。

 

これは2つの意味において。

 

まず、そもそも勉強で努力できることがある程度才能だから。

 

誰でもそこそこ才能があるから努力できるのです。

 

そこの、いかにも運動神経が悪そうなガリ勉の東大生、慶応生。

 

あなたは、受験科目がデッサンとピアノと100m走と砲丸投げなら、勉強でしたのと同じ位努力できるかい?

 

そんなことないでしょう。

 

あくまで「向いている勉強」だから努力ができたわけで、そもそも社会が勉強の能力を評価してくれるからこそあなたの努力は開花したのです。

 

間違っても勘違いしないでください。

 

「努力できるのは向いている分野だから。」

 

こういった謙虚な気持ちを持って勉強をしてください。

 

先ほど「努力できるのも才能」と申し上げましたが、別にこれは「才能がなければ努力できない」という意味ではありません。

 

私は人間には「器」や「幅」があると思っています。

 

例えば私はビルゲイツやマイケルジョーダンのような器はどうやってもありません。

 

しかし、それでも受験で何とか人並み以上に努力できる才能はありました。

 

1日10時間以上の勉強はできませんでしたが、それでも何とか7、8時間の勉強はできました。

 

すごく努力する才能がある人から見るとちょっと少ないかもしれませんが、これは私なりの限界です。

 

私は休みの日に1日4時間から8時間の幅で努力できる才能があったと思います。

 

この範囲では自分のベストを尽くしたと思っています。

 

1日4時間しかやらなかったとすると、私の中では努力不足です。

 

なぜならば、「私の器」の限界ではないからです。

 

大切なのは、自分の限界を知りその範囲で努力することです。

 

残念ながら人の能力は平等に与えられていません。

 

よく「限界を作るな」、「限界なんて言い訳だ」といった偉そうな物言いをする人がいますが、「お前はどれだけ偉いんだ?」とぶち切れたくなります。

 

私はあえて言いますが、人間の能力には限界があります。

 

それはカント哲学的な意味でもありますが、もっと素朴なレベルでも、やはり人間に無限の可能性があるなんて思えないからです。

 

しかし私はそれでもいいと思うんです。

 

できる範囲でやり抜く。

 

受験を通じて己の限界を知り、自分の適性を知る。

 

ここに受験勉強の最大の意味があると私は思うのです。

 

皆さんも、受験を通じて努力しつつも、受験や学力という価値が極めて地理的歴史的に特殊な価値観であるという相対化は忘れないようにしてください。